トライアスロンの勧め。60歳を過ぎたら、スポーツなのだ。

 仕事の大先輩である吉原順平先生(映像プランナー)が82歳で亡くなり、木曜夜にお通夜にうかがった。私から見ると吉原先生は博覧強記の岩波文化人を絵にかいたような方で、何かの仕事の折に、当時の逓信博物館の解説パンフレットが実によくできていて、という話をしたら「あれは私が書きました」とおっしゃられて驚いたことを覚えている。
 たぶんデカルトもマルクスも読んでいるんだろうな。そうした知識人の雰囲気を感じさせてくれる方は、最近は見なくなった。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11456354.html

 しかし、歴史に残るような大文化人であり、各界のお歴々が弔問に訪れる風景をイメージしていたのだが、思いのほか淋しい印象があった。この2年ほどは入退院を繰り返していたとのことで、仕事とは遠ざかっていたとは思うのだが、「これだけの人にしてこの程度なら」と思いつつ「俺の時はどうかなあ」などと頭が働き、我が葬儀のリアルなイメージが浮かんでくる。ひっそりしているだろうなあ。
 葬儀は無宗教で、クラシック音楽が流れるなかで献花となったが、ご遺体の顔が見える配置であれはどうかなあと、これも思いつつ「俺のときはごくごく一般的なコースでいこう」と考える。弔問客にとって見慣れたいつものパターンで、なんらの違和感もなく帰途につく。そんなのがいい。
 帰りは仕事仲間と二人で赤坂見附の寿司屋に入る。仲間のほうは最近肝臓を患ってアルコールはなし。話題は自然と健康や終活のことになる。「残りはあと20年なんだね」「まあ、お互い健康第一で気をつけていこうや」といったことで、まあ、当たり前の話であっても、それ以外にあろうはずもない。
 
 なにも健康のためにトライアスロンをやっているわけでも、トライアスロンをやっているから健康には自信があるわけでもまったくないが、こうした機会には、改めて、この年齢でトライアスロンに向かっていることの意味を思う。これは何回も書いているが、やはり、心身ともに緊張感をもって老いへの日々を過ごすということと思う。緊張といえば仕事の緊張が思い浮かぶが、試合に臨み、トレーニングを管理していく緊張感は、むしろ仕事でのストレスを癒してくれる力がある。
 身体の緊張については、コンディションを意識し、身体を動かす爽快な緊張感であり、これは常に意識をしている。毎日家をでて駅に向かうときも、身体は軽いか、足は動いているか、股関節はスムーズか、自然と意識が働く。
 死ぬまで仕事をしていくと思っている。しかし、仕事すなわちお金を稼ぐということは、刺激的な楽しみはあっても、不愉快なことに耐え、受け入れていくことでもある。そうしたなかで、トライアスロンによる心身の緊張は、心の救いになっているように思う。
 不機嫌な顔をした同年齢を多くみる。さらに言えば、不機嫌は社会全体を覆う時代の心理のように思える。さて、私も不機嫌に見えるのか、定かではないが、少なくとも、トレーニングや試合の折は不機嫌ではない。これは実に大切なことなのだ。

 そんな毎日は健康的であり、健康的な毎日を過ごしつつ、ひとつひとつ死への準備をととのえていく。これが私の暮らしのありかたか。葬式に行くと、そうそう、あれも準備しておかなくては、などどリストが追加される。今回は、葬式のスタイルのイメージがはっきりとした。息子さんの挨拶を聞きつつ、これはどうするか、結論は出ないままに、済ませておきたいことはいろいろあると考える。

通夜がえり ほろ酔い眺むや 秋の月

 こんなことを書くと、まだまだ若い、なんて意見も聞かれる。何の根拠もないが、長生きしそうな気もしている。あと20年もあるという見方もあろう。でも、60歳以降の日々は、それまでの日々とは、明らかに違うのだ。だから、60歳を過ぎたら、スポーツなのだ。

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