2月16日に67歳の誕生日を迎え、いまの我が身を振り返る。

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  66歳が67歳となっても、何かの感慨があるわけではない。ただし、誕生日というのは「改めて年齢を意識する」きっかけとはなる。
 まずは身体の年齢をとりあげよう。
 「歳をとると足腰が衰える」とは昔から広く伝えられるところだが、これまでそれがどのようなことを意味するのか、実感としてとらえられなかった。しかしいま、かなり確かな実感として「足腰の衰え」を感じるようになった。その直接的な原因としては、昨年10月末の「右足太腿前面肉離れ」がある。日々、少しづつ少しづつ回復を感じているのだが、いまだに屈伸をすると太腿の「そのカ所」に鈍い痛みを覚える。さらに、肉離れはそのカ所のみならず、両方の膝の痛み、左の股間節の痛みを派生させている。これらは直接的には肉離れからおきたものなのだが、実感としては、肉離れそのものが「足腰の衰え」であって、それが衰えを拡大させているように感じている。
 そうなんだ。67歳になって、足腰の衰えを確かなものとして感じている。具体的には特に屈伸だ。屈伸がおっくうになり、足の痛みを感じるようになり、安定を欠くようになっている。そこで思うのが「土俵入り」の太刀持ち、露払いは、土俵入りの間ずっと安定した屈伸の姿勢をとり、自然に立ち上がらなくてはならない。「よっこらしょ」というわけにはいかない。あの体重でそれが難なくできるのだ。でも私はもうできなくなっている。何にもつかまらず、安定した姿勢で、自然にスムーズで屈伸することができなくなっている。足腰の衰えとはそうしたことなのだ。なるほど。
 そこで、肉離れのリハビリテーションを「足腰の強化」に向けていこうとしている。1日の間に、いろんな合間をみて合計100回の屈伸を行う。階段では一歩ずつ体重を意識して昇り降りする。膝や腰のストレッチををマメに行うなど、ささやかながら、日常を変えようとしている。

 次に感じる衰えが「酒が弱くなった」。量が飲めなくなったとともに、あまり飲みたいと思わなくなった。長らく「毎日飲む」生活を続けてきた。飲んだ帰りでも、コンビニで仕上げのチューハイを買っていた。ところが、このところ、「家に帰ってカフェラテとリンゴ」なんて好みになってきた。なんだろう。
 帰宅してお酒を飲まなくなって思うのが、その時間をどのようにして過ごすのか。まだ身についてはいないのだが、ぜひ一日の最後を、ゆったりとしたストレッチで終える生活を身につけたいと思っている。

 ということで、足腰が衰えてお酒が弱くなり、だんだんと身体が縮小していく感覚はあるのだが、意識としては逆に、身体を動かそう、筋肉に刺激を与え、血の巡りをよくしようという方向に向かっている。それは「そのほうが気持ちがよい」からで、これは最近になって発見した楽しみなのだ。動かすのがおっくうになっているから動かさない、のではなく、おっくうになっているから動かしたくなる。何かを集中して考えるのが面倒になっているが、同時に、いつも何らかをあれこれと考える楽しみを自覚しだしている。

 なるほどなあ。老いていくことの楽しみというものがあるのだ。若いうちは無意識で行ってきたことができなくなって、意識して行うようになる。そのように意識して身体や頭を動かすことが、小さな、毎日の楽しみとなるようだ。

どんよりと 身体を包む みぞれ雨
 
 2月は雪の降る日が多い。でも日は格段に明るくなっている。
 私は疑問もなく、身体や頭を動かすことを楽しいと感じている。
 運動する呼吸、血の巡り、発汗、意識の集中を快感としている。
 それと、いまこうして書いていることが、私には同じことのように思えている。
 写真は江戸川沿い。昔の写真だけど、ちょっと気にいっている。
 
 
 

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