私の老年学2はやや高踏的に「ポール・ヴァレリー」の講演から。キーワードは「自己鍛錬」。年寄りの自己鍛錬です。

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心を溌剌とさせる「心のリズムトレーニング」とは何か。
 こんなことを書くと、心理学や認知症、高齢者介護などからの援用をしたくもなるのだが、あるいは書店では著名作家の「高齢者のための心構えガイドブック」がたくさん出てもいるのだが、ここではまったく違う方向からこの思考のきっかけを得ることにする。
 
 以下はポール・ヴァレリーの「知性に就いて」という講演内容の引用である。
 当ブログでは珍しく面倒な話になるのだが、私としてはここからスタートしたいので、ご容赦願いたい。お付き合いいただければ幸いだ。

 『現代を特徴づけていることの凡ての中で、一つ私が好感を持っていることがある。それはスポーツである。・・・私の言うのは、流行や模倣の結果としてのスポーツではなく、又、新聞で余りにも持噺されている種類のものでもない。私が愛するものはスポーツの観念であって、それを私は精神の領域に移して見るのである。この観念は、我々がもって生まれた性能のいずれかを、最大限度に発達せしめることをその目的としていて、しかも我々に備わっている凡ての性能の間に、ある平衡が保たれていることをも要求するものなのである。何故なら、人間を不具にするスポーツは悪いスポーツがからなのだ。又、スポーツの練習が真剣に行われている場合、それは必ず幾多の試練と、時には堪え難い欠乏と、一定の衛生と、結果に正確に現れる緊張と忍耐とを、要するものなのである。--一言にして言えば、人間の諸性能の分析と、その組織的な刺激とを基礎として、人間をある典型に向かって発達せしめて行く、正真正銘の行為の倫理学なのである。よって我々は一見逆説的に、スポーツとは反射作用の組織的な教育であると定義することが出来る。
 併し精神も、精神ではありながら、同じような方法によって処理することができる。』
(中公文庫 精神の政治学 ポール・ヴァレリー 吉田健一 訳)

 この文を読んだのは昨年のことだが、私がトライアスロンに励み、同時にこのブログを書いていることの動機や思いに、ストンとはまってしまった。。
 『人間をある典型に向かって発達せしめて行く、正真正銘の行為の倫理学』
 『スポーツとは反射作用の組織的な教育であると定義する』
 これを私なりに「自己鍛錬の楽しみ」と名付けてみる。
 この楽しみは、誰も知っているように、一流アスリートのみの特権ではない。

年寄りには自己鍛錬の楽しみがある。
 年寄りの自己鍛錬は、若者の自己鍛錬とは異なる。 
 若者は自己鍛錬の末に「何者か」となる。
 あるいは「何者か」を求めて苦しい自己鍛錬に耐える。
 しかし年寄りはもう「何者か」となることはない。
 「いやいや幾つになっても」という声もあるのは知っているが、私からすれば「バカ言うな」の一言である。
 「何者か」になることを求めずして「自己鍛錬に励む」。それは自己鍛錬そのものが、生きていく快楽であるのだろうと思う。
 
 ヴァレリーがこの講演を行ったのは1935年1月16日。ヴァレリーは1871年生まれなので、その計算からすると64歳。この時代では立派な高齢者である。ヴァレリーというと「地中海」となり、また水泳を愛したことで知られる。であれば、この講演をした64歳のヴァレリーは果たして泳いでいたのか。そう考えるのは楽しい妄想であるが、わからない。ただし、64歳でこの講演を行ったというのは、高齢者の私としては、こうした考えを自らに撞着させる大きな理由となる。

 もう一つ。こんなことを考える。
 自己鍛錬を成立させるには「目標」が不可欠である。目標の達成は「鍛錬」の成果であり、目標がなくなれば「鍛錬」の意味もなくなってしまう。
 体を鍛錬するその行為のなかに「目標」を内在させる。年寄りの「目標」はまさに自分自身の道しるべ以外のものではない。

夏が来た 命華やぐ 正気かな

 ここでようやく「心の自己鍛錬」の話にたどり着く。
 回りくどい話となっているが、そうでなくては語ることのできない思いというのはあるのだ。付き合ってほしい。
 そこには「目標」があり、日々の積み重ねが必要と考えてみる。。
 しかし、そのような精神活動というものが実際にあるのだろうか。
 自らあやつることのできる「心のリズムトレーニング」なるものは存在するのだろうか。

 はい、この先は次回。
 ちょっと一泊置いて考えます。
 梅雨も明けて、夏が来たぞう。
 体も心暮らしも「自己鍛錬」だあああああ。
 写真はヴァレリー。けっこうカッコつけている。
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