私の老年学の第3回。心の収縮と自己鍛錬について考えてみました。

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 前回から、だいぶ時間が経ってしまった。
 8月5日から9日までハノイ、8月19日20日が北京。海外出張は体にこたえる。時差はハノイが2時間、北京が1時間と大きな差ではなのだが、それでも身体のリズムがおかしくなり、疲れやすく集中力が衰える。ブログとも遠ざかる。
 ようやく回復し、改めてこれまでを振り返りつつ、考えを進めてみる。
 老化とは「収縮」である。
 まずこれがスタート。これは実感である。
 よって「収縮」を感じつつ、その状態をできるだけ居心地よく暮らしていく「工夫」が必要になる。若いうちは何も考えずに生きていくのだが、歳をとると漫然と日々を過ごしていくことができなくなる。何らかの「工夫」を自覚することが必要なのだ。
 そしてヴァレリーに触発されて「自己鍛錬」こそが「工夫」の要点ではないかと考えた。また、この「自己鍛錬」は何らかの「目標」を含むことにより「緊張という快楽」をもたらしてくれる。
 私の場合は、「身体の自己鍛錬」はトライアスロンだ。
 高齢者のスポーツというと、もっぱら「健康管理」の側面から語られている。
 しかしスポーツとは高度な精神活動であり、特に高齢者にとってのスポーツの楽しみとは、その精神活動の魅力にある。
 トライアスロンの大会を目標にして、仕事との調整、トレーニング、体調管理、食事、バイクのメンテナンス、大会の申込、前日の準備など、自らのあらゆる活動を総動員する。「収縮」していく運動機能を把握しながら「自己鍛錬」に励む。そんな「老人のスポーツライフ」もあると思う。

 では「心の収縮」に応じた「自己鍛錬の楽しみ」は何か。
 前回のブログ以降、そのことを自問自答してきたが、なかなか簡単には答えがでない。
 まず「読書」が頭に浮かんだが、それだけではどうもスッキリと納得ができない。そもそもなかなか読書ができなくなっていることが「収縮」の自覚症状なのだ。でも、やはり「読書」による「心の自己鍛錬」を考えてみたい。
 だだ漫然と読書をするのではなく、何らかの意図と目標をもって読書する。溌剌とした気分で読書をする。
 高齢者にとってのそんな読書の楽しみを考えてみたい。

 数年前から、生きているうちに「古典の名作」を読んでおきたいと思うようになった。
 そこで「赤と黒」「ボバリー婦人」「ゴリオ爺さん」「アンナカレーニナ」と読んできたのだが、いずれも途中まで読んでは止まってしまう。これが「収縮」の症状である。
 「途中まで読んで止まってしまう」のは「つまらない」からではない。むしろ作品に漲る緊張感に息がつまり、ちょっと距離を置いて一息つく気分で本を閉じてそのまま放棄という結果となった。本に没入していく心の力の衰え、収縮である。

 こんなことを調べてみた。
 「戦争と平和」はトルストイが34歳の時に執筆を始めたという。
 「魔の山」が出版されたとき、トーマス・マンは49歳であった。
 「八月の光」が出版されたとき、フォークナーはは35歳であった。
 「人間喜劇」を書いたのはバルザックが36歳のとき。

 なんだ、みんな若造ではないか。この若さで歴史に残る作品を書いたのか、あるいは若かったから書けたのか。我が身を顧みれば「馬齢を重ねる」という言葉が身に染みる。しかし、馬齢とはいえ、様々な経験も重ねている。そこで、年寄りが若き小説家と語るように読んでいくのはどうだろう。「ほう、そんなことを考えているのか、きみもまだ若いなあ」なんて気分で作者と語り合う。
 まずは、ただいま読みかけのトルストイと語り合ってみようか。
 「よう、ご無沙汰」の気分だな。

あけ放ち 夜風よびこみ ストレッチ
 
 命あるうちに、歴史に名を刻む偉大な精神と先輩気分で語り合う。これも高齢者ならではの楽しみであろう。死んだ人を新たな友として語り合う。これを快楽としたい。
 9月22日の九十九里トライアスロンまで1か月を切った。夏になってだいぶサボったので、気合を入れないといけない。暑さのため敬遠してきたランとバイクが不安だ。手帳を見ながら、「この日はラン、この日はバイク」と書き入れてみる。収縮する日常生活に「スケジュール管理」という自己鍛錬に向かうのだ。
 写真は北京空港。今回は一人旅でちょっと緊張。

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