オリンピック開催にあたりスポーツの裡にひそむ「官能的魅力」について。

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 『健康というものの不気味さ、たえず健康に留意することの病的な関心、各種の運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与える傲慢、・・・これらのものは、ヒロポンも阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与えない奇怪な症状である。』

 これは三島由紀夫の一文であり、新潮社『川端康成全集11』月報 昭和三十七年八月に掲載されたもので、タイトルは「最近の川端さん」となっている。川端康成の睡眠薬事故にかかわる短文の最後にこの一文がでてくる。
 意外な出会いに驚き、一読して苦笑気味に強く共感をおぼえ、これをきっかけにして久々のブログに向かおうと思いたった。

 この文章のアイロニー、大げさな身振り、スポーツへの屈折した愛着がいかにも三島らしく、一方私にはそうした資質にほどんど欠けていると自覚しているのだが、スポーツをこのように語ることに感嘆をおぼえ「そう、そのとおり」と喝采をあげたのだった。
 「各種の運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力」という言葉には、私がトライアスロンを続けていくなかで発見したスポーツの魅力、しかもこう言われて初めて気が付いた魅力を見事に言い当てている。
 さらにこの「官能的魅力」こそが、大衆消費社会とグローバル化が進むなかで、スポーツが一大産業とまでなり、いま様々なに語られているオリンピックという山脈を育ててきたマグマのように思えてくる。金権とはいうが「お金の魔術」こそは私たちの社会の根幹でもあるではないか。
 官能とは生きる魔術であり、だから奇怪であり、人は官能のために死さえ求める。
 
 この文を読んだのは『谷崎潤一郎 川端康成』というタイトルの中公文庫で、タイトルどおり、三島由紀夫の谷崎に関する文と川端に関する文を集めたアンソロジーとなっている。この本を買ったのは三島由紀夫が谷崎をどのように語るのかに関心があったためで、川端康成は三島をとおして関心を抱きはじめたばかりで、この本を読んで『雪国』を買ってはみたもののまだ読んではいない。多分肌合いが違うのだろう。
 こんな具合なので、冒頭に掲げた一文との出会いはまったくの偶然であり、こんなところでこんな人に出会うとはまったく思ってもいなかった、というところなのだ。
 
 そこで話は谷崎潤一郎に移る。久しぶりにこの本を読むきっかけになったのが谷崎の『猫と庄造とふたりの女』をこれも久しぶりに読んだことにある。寝しなに「今日は何を読もうか」と思いながら本棚を眺め、ああ谷崎が読みたい気分なのだと自己納得して読んだ。
 これは好きな作品で何回目かの読書となり、その豊かな文体を楽しんだのだが、私にとっての谷崎の魅力とはこの文体の官能にあり、また谷崎の描き出す奇怪な官能こそは谷崎を作家たらしめる生涯のテーマであった。
 さらに、巻末の解説が磯田光一で、こいつが引っかかって『谷崎潤一郎 川端康成』のページをめくることになったのだ。
 ずいぶんと回りくどい説明となった。
 
 『男女同権の思想も、社会の改革のめざす思想も、一匹の猫を愛したために苦しむ庄造の心を救いえない。それが谷崎潤一郎の思想であり、彼の文学の真の異端性の根拠でもある。人間は進歩や開放など求めてはいない。あるいは自由さえも求めていない。人間が心の底で求めているのは、女であれ猫であれ、あるいはイデオロギーであれ、一つの対象のために奴隷になることである。そしてそのために身を滅ぼすこと以外に、人間の栄光はもはやないのかもしれないのである。もしこういう感覚を理解できないなら、そういう人は、あの楽天的な“進歩と改革”の理想を信じ続けるがよろしいであろう。』

 ここまで書いてきて、腑に落ちたところがある。

 谷崎を読み始めたのはいつ頃であったのか。文章読本は若いうちから読んではいたが、小説までは手が伸びなかった。谷崎の小説を読み始めたのは、多分50歳になってからだと思う。それまでは山田風太郎の虜になっていたが、それも一段落したところで「刺青」を読み、まさに囚われた。何に囚われたのかといえば「奇怪な官能」であり「身を滅ぼす人間の栄光」かと思う。妻ががんにかかったのが50歳で亡くなったのが55歳。なかなかにきつい日々のなかで、谷崎の描く世界に囚われることで、心の落ち着き先を見つけたのだろうか。
 そしていま、トライアスロンというスポーツの官能に目覚め、老いた日々の支えの一つとしている。

どうしよう 走りに出るか 迷う夏
 
 私たちは何をよりどころにして生きているのか。
 何かと騒がしい世にあってどのように日々を処すべきか。
 
 オリンピックを前にして、開催賛否(主に反対)の声があがったが、反対意見で私の印象に残ったのは「命かオリンピックか」という声と「金権」という非難であり、私からすると「あの楽天的な“進歩と改革”の理想」から発した「正義論」にうつる。
 私は「人は何を売っても許されるが正義だけは売ってはいけない」という言葉を肝においているものである。この「正義論」は果たして私たちの「生きることへの渇望や官能」を満たしてくれるのか。「命かオリンピックか」という非難そのもののなかに「人間軽視」のパラドックスが潜んではいないか。金権非難の声は恥ずべき「怨嗟」から発してはいないのか。
 そんな感想をもって騒がしい世間を遠くから眺めていた。
 
 写真は夏のヒトコマ。
 さあ、オリンピックを楽しみもう。
 競技の緊張は、試合を終えた選手の表情は「スポーツのもつ奇怪な官能的魅力」を見事に表現してくれるのだ。それは私の命を潤してくれる。その頂点にある舞台こそがオリンピックという祭典なのだ。

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