ちょっと中休みの話題です。こんなことを考えながら書いています。

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 このブログはトライアスロンをテーマとしており、いたって能力のないおっさんのトライアスロン挑戦をとおして、同年輩のトライアスリートに、多少なりとも実用として役に立つ内容の提供を旨としている。能力の高いスペシャリストの指導者の言が役にたつのはもちろんであり、多くの教則本はそのようにして出来上がっているのだが、能力のない同輩の悪戦苦闘の報告も、それはそれとして、あるいはそれだからこそ、役にたつこともあるのではないかと願っている。
 ブログの内容としては、練習なりレースなり、我が体験の分析、思考となる。この分析、思考によって、続けていく力であったり、工夫の持ち方などを見つけていきたいと思っている。これは考えることによって、行動が促進されるという考え方に立っている。

 いきなりだが、ジャンリュックゴダールという映画監督がいた。過去形で言ってはいけないかな。ヌーベルバークの旗手として日本でも多くのフアンを得たが、私は趣味にあわなかった。基本的なところが違うのだと思う。ゴダールというのは映画作家として大した作家ではなく、彼が思わずやったことが時代に合った、あるいは時代がもてはやした。彼もそれを評価と錯覚した。歴史のなかではそうしたことは往々にあると思う、というのが私の見解だ。
 それはそれとして、ゴダールの映画でも忘れられないシーンがある。映画は「女と男のいる舗道」。これは映画そのものの面白さではない。映画で語られる物語のおもしろさだ。映画のなかで主演のアンナカリーナに哲学者が語りかける。ネットで調べたらその時の台詞がでてくる。驚きだなあ。引用しよう。Nはアンナカリーナ演じる主人公のナナ。Pは哲学者。
N: なぜ読書するの?
P: 仕事さ。
N: 変ね。何言ってんのかしら。突然こうなるの。何か言おうと言う前によく考えているうちに、いざとなるともう何も言えなくなるの。
P: そんなものさ。「三銃士」は読んだかね?
N: 映画は見たけど、なぜ?
P: つまり…ポルトスという人物が…、これは「二十年後」の話なのだが、太った大男が出てくるだろ。彼は一度も考えたことがない。ある時、地下に爆薬を仕掛けることになった。そして導火線に火をつけ、逃げた。その時、突然、考えた。何を考えたか? なぜ右足と左足が交互に前に出るのかと。そう考えた途端に、急に足が動かなくなった。爆発が起こり、地下が崩れた。彼は強い肩で必死に支えたが、1日か2日後には押しつぶされて死んでしまう。考えたために死ぬんだ。
N: 私になぜ、そんな話を?
P: ただ話をするためだよ。
N: でも、なぜ話をするの? 何も言わずに生きるべきよ。話しても無意味だわ。
P: 本当にそうかね?
N: 分からない。
P: 人は話さないで生きられるだろうか。
N: そうできたらいいのに。
 
 ポイントは「考えると足が動かない」「思考は行動を阻害する」ということ。あるいは「何も言わずに生きるべき」「そうできたらいいのに」ということ。
 でも人は言葉なくして生きていくことはできない。
 言葉とすることにより、走れなくなっても、言葉としなくては歩けない。この考えが私にはしっくりする。よって、このブログでは、言葉を紡ぐことで、歩く力を得ている。

長梅雨で 走る時間が 定まらぬ

 今日の話しは、私はこんな思いでこのブログを書いているということ。書いている思いを、改めて伝えてみたくなった。

画像は「男と女のいる舗道」のポスター。原罪はvivre sa vie(自分の人生を生きる)。なんでこんな邦題をつけたのだろう。



 

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